【エッセイ】幸せとは「感じる力」

今日は幸せについて考えてみる。

あなたは幸せですか?

幸せとは何ですか?

こんな問いとそれに対するありとあらゆる答えはもう出尽くしているような気がする。

それでも人が相変わらずこの問答を繰り返すのはどうしてだろうか?

人間とは、地球上に存在する生命の中でもトップクラスのエゴの強さと幸せへの執着を持つ存在であることはおそらく間違いないと思う。

私も含めて大半の人間が望む幸せとは「自分の幸せ」だ。

「自分の」には自分のテリトリー内にいる人の幸せも含むことが多いので、そうするともう少し範囲は広がるが、それでもたいした範囲ではない。

世界中の皆んなが幸せになる方法を見つけて実践するのは難しいということは誰でもわかる。

でも自分の周囲のごく僅かな範囲の幸せを見つけ感じることが出来ないとしたら、それは何か大きな勘違いをしている可能性が高い。

そもそも「自分が心地よい状態であることのみが幸せだ」と定義づけてしまうと幸せでない時間が増えてしまうのは当然だ。

感情を持たない生きものならば何が起きても喜ぶことも悲しむこともない。

だから幸不幸という観念自体がない。

幸不幸を感じるのは感情があるからで、その感情に良い感情や嫌な感情というようにラベリングをすることによって、この感情を感じている自分は幸せだ、とか不幸だ、と感じている。

単純に言ってしまえばそれだけのことだ。

じゃあ生きている限り幸不幸のアップダウンに振り回されるのか…嫌だな、良い感情しか感じたくないのに…と思ってしまうと負のループに陥ってしまう。

じゃあどうしたらいいのだろう?

私が思う答えは一つで「あらゆる感情を感じる力があるということが幸せなのだ」と幸せの定義を変えることだと思う。

どんなに安全で物質的に豊かな生活をしていても、感受性に乏しい人はこちらが思うほど自分の人生に感動していないかもしれない。

人間が享受できるありとあらゆる豊かさを手に入れても、感情に乏しければ意味をなさない。

物質には限界がある。人生を豊かに彩るのは人間の感情であり想像力(創造力)だ。

エゴは私という人間がこの世を味わい尽くすためにあらゆる感情を生み出してくれる。

扱いは難しいけれど、私が私として生きるための相棒のようなもの。

でも相棒である…ということは、私の本体は別に存在するということだ。

本当の私とエゴの二人三脚でこの世を生きる。

エゴは心配性で怖がりやさんだから色々と訴えてくるけれど、本当の私がそれを受け止めてあげる。

大丈夫だよ…どんな感情を感じていても大丈夫だよ。

今ここに生きていて、感じる力のあるあなたは幸せなんだよ。

そう思えなくてもね、大丈夫なんだよ。

あなたにも私にもいつも大丈夫だということがわかっている賢い自分がいる。

困った時は賢い自分に助けを求めればいい。

だからたくさん感じて幸せを享受しよう

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